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長篠の戦い

織田家 徳川家 武田家 上杉家

織田家家紋戦国の世を戦った大名たち

織田家織田家紋織田信長
根拠地:尾張国 支配城:清洲城、岐阜城、安土城、那古野城
  • 室町時代、越前や尾張の守護を務める斯波氏の被官となる。
  • 尾張守護代となった織田氏は。戦国の混乱期で弱体化した斯波氏に変わり、頭角を現すようになった。
  • その後、岩倉織田氏と清洲織田氏に分裂し、家中での抗争が激化していく。
  • 中でも信長の父である信秀は主家を凌ぐ力をつけ、軍事行動を活発にする。
  • 三河の松平氏、遠江の今川氏と対立を深めた。このとき、幼い信長と家康は互いに面識がある。
  • その後、子である信長が尾張統一を果たし、桶狭間において今川軍を破る。
  • 破竹の勢いで斎藤氏の美濃を手中に収め、天下統一を発した。

織田家年表

1534年信長誕生。幼名「吉法師」
1546年信長元服。三郎信長と名乗る
1551年織田家家督を信長が継ぐ
1556年織田信勝謀反。稲生の戦いにより謀反鎮圧
1558年信勝再び謀反。清洲城で信勝殺害
1560年桶狭間の戦いで今川義元を討ち取る(毛利新助が大将首)
1562年清洲同盟(今川氏から独立した松平家との同盟)
1564年北近江の浅井家と同盟。妹である市を嫁がせる。
1567年稲葉山城を攻略。美濃を手中に収め、稲葉山を岐阜と改名。
1569年朝倉氏討伐。浅井家の裏切りにより失敗(金ヶ崎の退き口)
1570年織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が姉川で激突(姉川の戦い)
1571年比叡山延暦寺焼き討ち
1575年織田・徳川連合軍が長篠の戦いで武田軍を撃破。武田軍は多くの重臣を失う。
1580年一向一揆衆を率いていた石山本願寺と和睦
1582年本能寺で明智光秀に討たれて信長、嫡男信忠死去

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徳川家家徳川家紋徳川家康
根拠地:三河国 支配城:岡崎城、浜松城、江戸城
  • 徳川姓は徳川家康が始祖となった苗字である。
  • 家康は元々は松平という姓を持っていたが、家康の父である
  • 広忠が家臣に暗殺されたことをきっかけに松平家は衰退を始める。
  • これをきっかけに松平は今川に臣従、元康は今川の人質として暮らすことになる。
  • 転機が訪れたのは1560年の桶狭間の戦い。主君である今川義元は織田信長に討ち取られたことをきっかけに松平は独立。
  • 父の代からのゆかりの土地、三河で独立を果たすことができたのである。
  • また、三方ヶ原の戦いの後武田家臣は奮戦した徳川家臣の本多忠勝についてこう述べている。
  • 「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」

徳川家年表

1542年家康誕生。幼名「竹千代」
1547年人質として駿府に行く途中、織田家に襲撃され織田家の人質に
1549年広忠が家臣に暗殺される。織田家から今川家の人質となる。
1555年元服、松平次郎三郎元信と名乗る。
1557年今川家武将関口氏広の娘瀬名と結婚。義元の一時を拝領し元康と名乗る。
1560年桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られ、岡崎城へ帰還。
1561年今川家と縁を切り、織田信長と同盟を結ぶ。(清洲同盟)
1563年元康改め、家康と改名する。
1566年朝廷の勅許を得て、松平から徳川姓へ。三河守叙任(朝廷の役職のこと)
1568年三河を平定し、浜松の引間城へ入城
1570年浜松城を築城。居城を浜松に移動する
1572年三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗。(この大敗を忘れぬよう、肖像画を描かせたといわれている)
1575年織田信長とともに武田軍を長篠の戦いで破る。
1579年正室瀬名姫、長男信康を自害に追い込む(武田家に通じた、謀反の疑いがあったなどの推測)
1582年本能寺の変。堺観光中の家康は急遽三河へ帰国(神君伊賀越え)
1584年小牧・長久手の戦いで秀吉と争う。後に和睦。
1590年臣従に従わなかった北条氏を秀吉と共に攻める。結果北条氏は滅亡。
1584年小牧・長久手の戦いで秀吉と争う。後に和睦。
1595年三男秀忠(江戸幕府第2代将軍)浅井長政三女の江と結婚
1598年豊臣秀吉死去。家康豊臣五大老に任ぜられる。(豊臣政権で力を持った5人の武将を秀頼を補佐させるために役職を任命)
1599年前田利家死去に伴い、反秀吉への軍事活動を活発にする。
1600年関ヶ原の戦いで東軍勝利。石田三成、大谷吉継など豊臣政権の武将が死去
1614年大阪冬の陣が起こる
1615年大阪夏の陣が起こる。真田信繁(幸村)の健闘空しく大阪城落城。豊臣家滅亡
1616年一説では食中毒、過食により死去。東照大権現の神号が贈られる。

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武田家武田家紋武田信玄
根拠地:甲斐国 支配城:躑躅ヶ崎館、海津城、岩村城
  • 源義家を始祖とする武家
  • 信玄、勝頼は甲斐武田氏の当主であったが甲斐武田氏以外にも
  • 安芸武田氏、若狭武田氏などさまざまな宗家が存在していた。
  • しかし、甲斐武田家を含めほとんどの宗家は江戸時代までに滅亡している。
  • 武田軍といえば風林火山の軍旗と甲冑を赤く塗った赤備えという騎馬隊である。
  • この二つをもって、武田家は圧倒的な軍事力で領土を拡大した。
  • 信玄の代になると信濃国へ進軍。小笠原氏や村上氏といった豪族と対立。
  • 信濃を手中に収める過程で村上氏の要請を受けた上杉家と対立。
  • 川中島で5回にわたる激戦を繰り広げている。
  • その後も、領地拡大を目指すものの織田・徳川連合軍による長篠の戦いに大敗
  • 結果、戦国大名としての武田家は滅亡を迎えてしまう。

武田家年表

1521年信玄誕生。幼名「太郎」
1536年信玄元服。武田晴信と名乗る。
1541年悪政を布いていた父信虎を追放。武田家当主に
1542年信濃国侵攻を本格的に始める。諏訪郡を平定
1548年北信濃の村上義清に敗北。重臣の板垣信方、甘利虎泰を失う。
1550年再び村上義清の戸石城を攻めるも敗北。
1551年真田幸隆の策により戸石城奪取に成功
1554年長尾景虎(上杉謙信)と対立が深まり、甲相駿三国同盟を締結(武田、今川、北条)
1559年晴信出家。信玄と名乗る。
1560年桶狭間で今川軍が敗れたことをきっかけに同盟を破棄。今川領へ侵攻を始める。
1561年第4次川中島の戦いにおいて、実弟の武田信繁、軍師の山本勘助を失う。
1567年長男の義信自害(駿府侵攻に反対し、謀反を起こそうとしたため。)
1572年信長包囲網の一端として3万の軍勢を率いて上洛を開始する。
同年三方ヶ原の戦いで徳川軍を撃破するも持病が悪化し、退却
1573年信玄死去。勝頼が武田家当主となる。
1575年長篠の戦いで大敗。馬場信春、山県昌景などの有力武将を失う。
1579年上杉家と同盟したことをきっかけに北条氏が同盟を破棄。結果、織田、徳川、北条といった周囲を敵に回すことになってしまう。
1582年木曽義昌、穴山梅雪、小山田信茂が裏切る。天目山において勝頼自害。

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上杉家上杉家紋上杉謙信
根拠地:越後国 支配城:春日山城、栃尾城
  • 世に知れ渡っている上杉謙信は本来、長尾氏という家計の元に生まれた。
  • 長尾氏は越後を納める上杉家の下で守護代を務めていたが
  • 後に上杉憲政より関東官領を引き継ぎ、上杉姓を名乗るようになる。
  • 謙信が上杉家当主のころは私利私欲に任せた戦は一切行わなかった。
  • 出陣した戦は全て義によるもので、謙信本人も義に厚い武将だったと言われている。
  • 謀反を行った武将を全て許し、軍勢に復帰させている。
  • しかし、謙信没後は血を血で洗う御館の乱という跡目抗争が起き
  • 上杉家はその抗争から衰退の一途をたどることとなる。
  • また、後世のライバルでもある武田信玄が没したときには
  • 「吾れ好敵手を失へり。世に復たこれほどの英雄男子あらんや」と号泣したと言われている。
  • 「私はライバルを失ってしまった。この世に彼ほどの英雄たる男はいないであろう。」

上杉家年表

1530年謙信誕生。幼名「虎千代」
1536年兄晴景が家督を継いだため、虎千代は仏門へ帰依
1543年晴景を不服とする勢力に担がれ、栃尾城主に。長尾景虎を名乗る。
1545年黒滝城主が2度にわたり謀反、これを平定する。
1548年景虎派と晴景派が対立。結果、晴景が隠居し景虎が家督を相続し、春日山に居城を移す。
1550年越後国守護であった上杉定実が死去したことにより、越後国主となる。
1551年景虎の家督相続に反対していた長尾房景、長尾政景親子を降伏させ越後を平定。
1552年北条氏康に追われた上杉憲政を匿う。
1553年北信濃の村上義清も要請を受け出陣。武田信玄と川中島で対峙。
1554年家臣で北条城城主の北条高広が謀反。これを平定し帰参を許可する
1561年上杉憲政の要請を受け、小田原城を包囲。上杉憲政から関東管領を相続し上杉政虎と改名
1564年第5次川中島の戦い
1565年長尾政景事故死。政景の子で甥の喜平次(後の上杉景勝)を養子にする
1567,68年北条高広、本庄繁長ら家臣が謀反。これを平定し帰参させる
1570年北条氏康と同盟。氏秀を養子とし景虎と名づける(上杉景虎)
1571年法号謙信を名乗る。氏康の死により北条との同盟破棄。織田信長と同盟。
1576年本願寺、武田と和睦。織田との同盟を破棄し織田に反旗を翻す。
1577年越中国、能登国を平定。織田信長重臣柴田勝家に勝利
1578年織田攻め、上洛の準備中に謙信急死。御館の乱が発生。景勝が景虎に勝利し、上杉家当主に
1580年柴田勝家、上杉領へ侵攻。
1581年御館の乱の恩賞不満により新発田重家が謀反。滅亡の危機に
1582年信長の死去により、危機回避
1586年羽柴秀吉の臣下となる。
1587年新発田重家を自害に追い込む。謀反終結
1598年秀吉の死去に伴い、家康と対立。
1600年関ヶ原で西軍大敗。家康に降伏するも120万石の領地が30万石に減俸される。

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