豆知識 〜戦国を更に知る!〜
武将たちの辞世の句
戦国武将は自らの生き様をひとつの歌にしたためることがあります。
辞世の句を読んでいると、その武将の人生を垣間見ることが出来ます。
| 織田信長 | 「人間五十年、下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり。一たび生を得て、滅せぬもののあるべきか。」 | |
| 上杉謙信 | 「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒」 | |
| 豊臣秀吉 | 「露と落ち 露と消へにし我が身かな 浪速ことは 夢のまた夢」 | |
| 武田信玄 | 「大ていは 地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」 | |
| 徳川家康 | 「嬉やと 再び覚めて一眠り 浮世の夢は暁の空」 | |
| 伊達政宗 | 「曇りなき 心の月をさき立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」 | |
| 毛利元就 | 「友を得て なおぞうれしき桜花 昨日にかはる今日のいろ香は」 | |
| 明智光秀 | 「順逆無二門 大道徹心源 五十五年夢 覚来帰一元」 | |
| 島津義弘 | 「天地(あめつち)の 開けぬ先の 我なれば 生くるにもなし 死するにもなし」 | |
| 石田三成 | 「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」 | |
| 本多忠勝 | 「死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば 」 | |
| 織田信孝 | 「昔より 主を内海の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前 」 | |
| 武田勝頼 | 「朧なる 月もほのかにくもかす み晴れて行くへの 西の山の端」 | |
| 柴田勝家 | 「夏の夜の 夢跡はかなき跡の名を 雲井にあげよ 山郭公 」 | |
| 朝倉義景 | 「かねて身の かかるべしとも思はずば 今の命の 惜しくもあるらむ 」 | |
武将の逸話
戦国を生き抜いた武将には数々の逸話が残されています。
決して戦場では見せなかった武将の本当の姿をここでは紹介していきます。
毛利元就 〜三本の矢〜
- 元就は3人の息子を呼び出しこう言ったという。
- 一本の矢では容易く折れてしまうが、三本に束ねれば強固なものとなる。
- 兄弟が協力せずばらばらだと一本の矢のように簡単に毛利家は倒れてしまうが
- 兄弟三人が協力すれば、毛利家は倒れることはないと告げた。
- この後、毛利家は関ヶ原の戦い以降も存続していくこととなる。
本多忠勝 〜生涯で一度の傷〜
- 徳川家の武将で「徳川に過ぎたるものは二つあり。唐のかしらに本多平八」
- と呼ばれるほどの猛将であったといわれている。
- 数々の戦に出陣し、かすり傷ひとつ負うこともなかった。
- ある時、趣味である彫刻を行っている際に小刀で指を切ってしまう。
- かすり傷ひとつ負わなかった忠勝は傷を見て自分はもう長くはないと悟った。
- それからまもなくして忠勝は死去したと言われている。
織田信長 〜父の葬儀〜
- 信長は幼少期からうつけ者(ばか者)と呼ばれており
- 奇行が目立ち、身なりも派手であった。教育係の平手汎秀も頭をかかえるほどであった
- 父・信秀の葬儀の際、喪主であるにもかかわらず遅刻して現れた
- 更に、普段着のまま入り込み、父の位牌に焼香を投げつけて去ったという。
- これには、家臣の自分を見る目を試したという一説があり
- この奇行を行うことで自分に従うもの、背くものがはっきりとわかるということで行ったことであった。
武田信玄 〜戦〜
- 信玄が周りの家臣によく言っていた言葉がある。
- 「戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」
- これには、五分の勝ちであれば今後の励みの気持ちが生じ、
- 七分の勝ちなら怠り心が生じ、十分つまり完璧に勝ってしまうと敵を侮り、驕りの気持ちが生じるからだ。
- と語っていた。最強騎馬隊武田軍の強さの秘訣はここにあったのかもしれない。
上杉謙信 〜義というもの〜
- 上杉謙信といえば武田信玄と激しく火花を散らした将として有名である。
- 武田信玄が今川氏真と対立し、塩をとめられてしまう。
- (甲斐・信濃は海と隣接していないため塩を確保することが難しい。これを狙った氏真の作戦だった。)
- 謙信は、塩を止められた信玄に塩を送り届けたといわれている。
- 謙信は、戦いは正々堂々とするものであり、領民を苦しめることは卑怯だと見逃すことが出来なかったのである。
- また、謀反を行った武将も帰参を許し、義に背く戦はしなかったとも言われている。
