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長篠の戦い

伊達家 浅井家 毛利家 北条家

織田家家紋戦国の世を戦った大名たち

伊達家伊達家家紋伊達政宗
根拠地:陸奥国 支配城:米沢城など
  • 伊達家は東北地方南部を本拠とした一族で、藤原北家山陰流を称す。
  • 戦国時代における伊達家は、稙宗と晴宗の対立から始まっていく。
  • 稙宗は息子実元を上杉家の養子として出すことを模索したが、晴宗派が反対。
  • 内乱が起き、晴宗派が勝利するも伊達家は疲弊し、支配していた諸大名の独立を許す結果となってしまった。
  • 稙宗を追放し、当主となった晴宗は疲弊した家臣団の再統制を行ってい、息子輝宗の代には諸大名との友好を図っていった。
  • そして、時代は独眼竜政宗の時代へと変わっていく。政宗は強固として領土拡大作戦を実施する。
  • 破竹の勢いで奥州を平定し、伊達家は最大の領土を獲得することが出来た。
  • 豊臣秀吉、徳川家康がもっとも警戒をするほど、武勇、知略共に優れている人物であった。
  • 最近では、政宗が10年早く生まれていたら天下は政宗のものになったかもしれないと言われている。

伊達家年表

1544年伊達輝宗誕生
1548年天文の乱。稙宗が隠居し、晴宗が15代伊達家当主となる。
1564年晴宗隠居。輝宗が16代伊達家当主となる。政宗誕生 幼名「梵天丸」
1570年家中の有力者である中野宗時親子を追放。
1571年政宗、天然痘にかかり右目を失明。このころから母から疎まれる。
1574年輝宗の実弟留守政景が宮城郡の反伊達勢力を平定
1578年上杉家の御館の乱に介入。上杉景虎へ味方する
1579年相馬氏への対策のため、田村氏の愛姫と政宗結婚
1583年相馬氏に奪われていた丸森城を奪取。相馬氏と和睦
1584年輝宗隠居。政宗が17代伊達家当主となる。
1585年輝宗、畠山義継に捕らえられ、政宗の誤射により死亡する。
同年人取橋の戦いで、佐竹・蘆名連合軍に勝利
1588年最上義光と和睦
1589年奥州南部を制圧し、114万石の太守となる。
1590年豊臣秀吉の臣下につく。
1591年総無事令違反、一揆の煽動の罪で150万石から58万石に減法
1600年関ヶ原の戦いで東軍に属し、上杉景勝のけん制を果たすが、一揆を煽動したことで評価が下がる。
1601年仙台に移り、初代仙台藩主に。
1605年娘の五郎八姫(いろはひめ)が徳川家三男忠輝と結婚
1613年支倉常長を慶長遣欧使節として欧州に派遣
1614年幕府軍として大坂冬の陣に出陣
1615年大坂夏の陣に出陣し、後藤又兵衛を討ち取る。
1636年伊達政宗死去。18代伊達家当主には忠宗が就任

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浅井家浅井家家紋浅井長政
根拠地:北近江 支配城:小谷城
  • 浅井家は京極家の家臣で、北近江を中心に勢力を持った大名家。
  • 4代亮政の代に、京極家で御家騒動が発生する。
  • 浅井家は混乱に乗じて京極家を浅井家の傀儡とし、支配力を強めていったとされる。
  • この時、南近江の六角氏と対立しこれに対抗するために朝倉家と同盟を結んでいる。
  • 5代久政の代には、周辺諸国の大名の台頭により対立が深まっていく。
  • 特に、六角氏は北近江への侵攻を強めていった。
  • 一方で、自分の家臣の娘を新九朗(後の長政)に嫁がせ、新九朗に賢政名乗らせることにより
  • 徐々に浅井家は六角家へ臣従を促され、浅井家中は分裂していった。
  • しかし、6代目長政による六角氏への一大攻勢により六角氏に大勝。独立を果たす。
  • 織田信長と同盟するものの、後に反旗を翻し織田家によって滅亡している。
  • 浅井長政の三人の娘が有名であろう。
  • 茶々はつの三姉妹は織田家に帰陣したのち、それぞれ大名家に嫁いでいる。
  • 茶々は豊臣秀吉の側室(淀殿)に、はつは京極高次に、江は徳川秀忠(江戸幕府2代将軍)の正室となっている。
  • また、有名な話として、「小豆袋」の逸話が残っている。
  • これはお市が信長に陣中見舞いとして袋の両端を結び中に小豆を入れたものを送った。
  • これには、「信長はいま、袋のネズミである」ということを伝えるために送ったものだと言われているが
  • 後世の作り話であるという説もあるが、有名な逸話のひとつである。

浅井家年表

1542年久政が浅井家5代目当主となる。
南近江の六角家の勢力に押され、六角家の配下となる。
1545年長政誕生。幼名「猿夜叉」
1559年父・久政を隠居させ、長政が浅井家6代目当主に。
六角義賢と対立し、妻を六角家に返し離別する。
1560年野良田の戦いで六角家に大勝。北近江で独立。野良田の戦いは近江の桶狭間と呼ばれている。
1567年織田家と同盟し、お市の方を正室として迎える。
1570年朝倉攻めに不服を持った浅井家が織田家より離反。金ヶ崎の退き口発生。
姉川の戦い。織田・徳川連合軍に大敗。
1572年武田家と連携を図るものの、武田撤退により失敗。
1573年小谷城の戦いにより浅井久政・長政親子自害浅井家滅亡
長政正室・お市は織田家に帰陣している。

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毛利家毛利家家紋毛利元就
根拠地:安芸国 支配城:吉田郡山城など
  • 毛利家は安芸国国人領主として成長し、山名家や大内家の家臣として栄えた。
  • 戦国時代には国人領主から戦国大名となり中国地方を統一する大名家になった。
  • 特に元就の時代には、勢力を大きく拡大する。
  • 家臣団の粛清、敵対勢力を滅ぼし、子を養子にいれ小早川、吉川両家を乗っ取るなど知略の限りを尽くした。
  • 更には、大内家を乗っ取った陶晴賢を厳島の戦いで破り、傀儡となっていた大内義長も破る。
  • こうして、大内家の旧領を毛利家の領土として接収することに成功した。
  • 1566年には敵対していた尼子家を滅ぼし、中国地方に一大勢力を築きあげた。
  • また、戦国の世が終わった後毛利家は長州藩として継続していくことになる。
  • 歴史的観点から見れば吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作など明治の日本を動かした人物を多く輩出する。
  • こうして、彼の子孫は後世も活躍していくこととなる。

毛利家年表

1497年元就誕生。幼名「松寿丸」
1506年元就の兄・興元が家督を継ぐ
1516年兄の死去に伴い興元の子である幸松丸が家督を継ぐ
1523年幸松丸が死去したことに伴い、元就が毛利家当主に
1529年母方の実家で反対元就派の武将を殺害。地盤固めに奔走する。
1541年尼子家を離反し、大内家の傘下に入る。
1541年居城である吉田郡山城を尼子晴久に攻められるが守りきる。
1542年大内家が尼子家との戦いに敗れると、大内家からの離反を画策する。
息子の松寿丸(元春)を吉川氏へ、徳寿丸(隆景)を小早川氏へ養子へ送る
1550年元春、隆景を養子先の当主とすることに成功し、安芸国、石見国、備後国を支配下に置く
1551年大内家を乗っ取った陶晴賢と敵対。
1555年陶晴賢を厳島の戦いにおいて打ち破る。
1557年陶晴賢の傀儡であった大内義長を討ち取り、周防国、長門国を支配
元就隠居。息子の隆元が毛利家当主に
1561年備中国を支配下に置く
1563年隆元死去。隆元の息子である輝元が毛利家当主に
1566年月山富田城の戦いで尼子義久に勝利。中国地方の大部分を支配下に
1569年尼子家残党山中鹿之助により、出雲国、伯耆国を奪われる
1570年尼子勝久に勝利。再び、出雲国、伯耆国を支配下に
1571年吉田郡山城にて元就死去
1580年織田家による中国進出が始まる。これに対抗する。
1584年秀吉の臣下となる。
1595年嫡男・秀就誕生
1598年豊臣政権の五大老の一人となる。
1600年関ヶ原の戦いで徳川家康に対抗。西軍敗北
周防国、長門国の2領地に減封
1625年輝元死去

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